平安時代中期の歌人、和泉式部(いずみ しきぶ)。
和泉式部・紫式部・清少納言は三大女流歌人とされる。
小倉百人一首56番
〝あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな〟
和泉式部・紫式部・清少納言は三大女流歌人とされる。
小倉百人一首56番
〝あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな〟
彼女の伝承は日本全国に及ぶ。
鳥取での足跡を追ってみた。
「歴史は事実ではない。」「史実であるかもしれない。」
と思いつつ・・・
鳥取での足跡を追ってみた。
「歴史は事実ではない。」「史実であるかもしれない。」
と思いつつ・・・
まずは、
鳥取市湖山町の「和泉式部 産水の井戸」と「和泉式部の胞衣塚」に行ってきた。
鳥取市湖山町の「和泉式部 産水の井戸」と「和泉式部の胞衣塚」に行ってきた。
★★★鳥取市湖山町
■和泉式部 産水の井戸(鳥取市湖山町南)
案内板
和泉式部は平安中期の歌人で因幡守大江雅致の娘で和泉守橘道貞の妻である。第66代一条天皇の中宮彰子に仕え情熱歌人として有名である。
産湯の井戸は御井津の井戸とも言われ、
水質は湖山随一で式部が生まれたときに産湯に使われたと言われる。
〝春くれば 花の都を見てもなお 霞の里に 心をぞやる〟
この歌は式部が京で望郷の思いを詠んだもので、
湖山池周辺を「霞の里」と呼ぶようになったのはこの式部の歌によるものである。
ネットで調べると・・・
春来れば 花の都を見てもなほ 霞の里に 心をぞやる
春くれば 花の都を見てもなを 霞の里に 心をぞやる
春立てば 花の都を見てもなお 霞の里に 心をぞやる
春来れは 花の都を見ても尚 霞の里の 名残をぞ思ふ
などもある。
春来れば 花の都を見てもなほ 霞の里に 心をぞやる
春くれば 花の都を見てもなを 霞の里に 心をぞやる
春立てば 花の都を見てもなお 霞の里に 心をぞやる
春来れは 花の都を見ても尚 霞の里の 名残をぞ思ふ
などもある。
木の蓋を開けると、水が満々と。
湖山地区公民館かな?
http://chiiki.city.tottori.tottori.jp/koyama-1/map/ido/ido.html
御井津の井戸ともいう。水質は湖山随一、夏も水が涸れない。
和泉式部は因幡国守、大江定基の娘といわれている。生年月日は貞元元年~天元二年頃で幼名御許丸、江式部と云った。
大江定基は平安時代の因幡国守で風光明媚な湖山に別荘をつくる。
その屋敷跡は気象台跡の台地から初覧山の秋葉山一帯の台地にかけてである。
■和泉式部の胞衣塚(えなづか)
井戸から湖山神社を過ぎ、しばらく歩くと胞衣塚へ300mの表示。
昭和時代の石碑のようだ。
湖山池研究所
http://www.city.tottori.lg.jp/koyamaike/kg-1/kg-4/kg-4-1-ooesadamoto.html
大江 定基
湖山の井津水地区には、和泉式部の胞衣塚(胎児を包んでいる膜)であるとされているものが残っています。
その和泉式部のお父さんと言われているわけですね。
定基の別荘の屋敷跡が、現在のほし台地から秋葉山台地にかけて残っています。
大江氏は、代々文字をもって傑出した家柄で、その血を受けた定基も文字の教養高く、そのために風光明媚な湖山の地に住んで風流人としての生活をしていたと伝えられています。
定基は湖山池の美しい景色を愛していたのですね。
両側にユリ。
後ろは文字だらけ。和泉式部がいくつも刻まれている。
側面には、天明七年・・・
その他の鳥取県東部にある和泉式部の古跡をググッてみた。
まだ、行ったことはない。
http://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1098882594140/index.html
http://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1096974714359/index.html
(鳥取市観光コンベンション協会)
http://yokoso.pref.tottori.jp/dd.aspx?menuid=1136
などを参照。
★★★鳥取市鹿野町
■和泉式部がお参りした住吉神社
住吉神社は海上守護、歌道の神様として尊崇されいて、
歌道に名声の高かった和泉式部は妊娠した際、
故郷の湖山(鳥取市)へ帰り、この神社に17日間参り続けた。
■和泉式部の子である小式部内待の産湯井戸跡
参道の西側にある井戸の水を汲んで小式部内侍を産んだと伝えられている。
小式部内侍は鹿野町の水谷で生まれた。
★★★鳥取市国府町
■和泉式部の父・因幡国守、大江貞基が参籠した観世音菩薩
「因幡観音十八番札所、谷の観音さん」として古くから信仰された観音菩薩。
本尊は「千手観音菩薩」で、縁起録によれば45代聖武天皇の御代、
光明皇后御安産の祈願のため仏師行基に仏像をきざませ、
その一つを、伝教大師が京都の比叡山よりこの祈願所にうつしたと伝えています。
平安の頃、因幡国守、大江貞基はこどもに恵まれなかったが、
千手観音の霊顕あらたかなのを聞き夫婦揃って参籠、
授かったのが和歌にすぐれ京で名をしられた「和泉式部」である。
★★★鳥取県八頭郡八頭町
■因幡国主大江貞基も社殿を再建している大江神社
古くは「延喜式」記載の古社で天穂日命・ 大己貴命・三穂津姫などを合祀。
因幡二の宮といわれ、4月の例祭には巫女舞が奉納される。
http://www.genbu.net/data/inaba/ooe_title.htm
八五九年(貞観元)に因幡国主大江氏雅が、
また九二七年(延長五)に因幡国主大江貞基も社殿を再建している。
<小式部内侍(こしきぶ の ないし)>
〝大江山 いく野の道の 遠ふければ まだふみを見ず 天の橋立〟
母の和泉式部同様恋多き女流歌人として、藤原教通・藤原定頼・藤原範永など多くの交際で知られる。
20歳代で死去。この際和泉式部が詠んだ歌(後拾遺和歌集)
〝とどめおきて 誰をあはれと 思ふらむ 子はまさるらむ 子はまさりけり〟
20歳代で死去。この際和泉式部が詠んだ歌(後拾遺和歌集)
〝とどめおきて 誰をあはれと 思ふらむ 子はまさるらむ 子はまさりけり〟
<和泉式部の父親は誰だろう?>
・大江雅致(因幡守)
・大江定基(因幡守)
・大江定基(三河守/寂照)
・大江貞基(因幡守)
・大江貞基(三河守)
記載は、いろいろ。
多くの人が調べているようだ・・・
●鳥取大学地域学部地域文化学科 地域文化調査実習
無駄安留記隊
2008年度 地域文化調査成果報告書
http://www.docin.com/p-104615335.html
(一部抜粋)
因幡志によると、和泉式部の父である大江雅致とは後の大江定基のことであり、
定基は因幡守に任命されたという記録が残っている。 また、 屋敷跡も湖山に存在していた。
そのことから、娘である和泉式部も湖山で誕生したと言えると書かれている。
しかし大江雅致と大江定基が同一人物であるという記述は誤りであり、
定基は和泉式部の父親ではない。
また、稲幡民談記には和泉式部が因幡で生まれたということは書かれていない。
上記が本当だとすると、
湖山の産水の井戸・胞衣塚にある案内板は、修正した方がよさそうだ。
「因幡志」によると追記すれば安上がりだ。
湖山の産水の井戸・胞衣塚にある案内板は、修正した方がよさそうだ。
「因幡志」によると追記すれば安上がりだ。
また、無駄安留記に記されている
春来れは 花の都を見ても尚 霞の里の 名残をぞ思ふ
は、1061年の歌なので、
春来れは 花の都を見ても尚 霞の里の 名残をぞ思ふ
は、1061年の歌なので、
和泉式部はすでに没しており、別の詠者と推測している。
「定基は和泉式部の父親ではない。」とすると誰?
●『和泉式部日記』の成立に関する試論
その執筆契機と赤染衛門の関与について
妹尾好信(大分大学教育学部講師)
平成3年
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AN00090146/kokubungakukou_131_1.pdf#search='%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%87%90%E5%B9%B3+%E5%92%8C%E6%B3%89%E5%BC%8F%E9%83%A8'
(一部抜粋)
『尊卑分脈』 によると、和泉式部には四人の父がいることになる。
①藤原懐平
②大江雅致
③藤原資高
④藤原資任
の四人である。
懐平説と雅致説が主流のようだ。
「表向きは雅致の子で、実は懐平の子。」
「表向きは雅致の子で、実は懐平の子。」
和泉式部と湖山の関係を調べていると・・・
★★★島根県浜田市
島根県浜田市には、
和泉式部は、京都から大宰府の父を訪ねる旅の途中、
身重の体で山陰路を通り浜田で赤子(小泉式部)を産み、
帰りにその子にめぐり合い、京へ連れて帰ったという話がある。
●和泉式部「子落し」伝説
泉塾 古典の旅から 書友のために 日本習字 綾香会
2011年6月6日 T.TARUMI
http://www.yohseikai.com/kootoshi.html
(一部抜粋)
彼女の父は大江雅致です。夫が橘道貞で仮に義父がなぜ藤原姓なのか。
和泉式部の父には二説ありました、しかし藤原資高は千十三年十五才で元服していますので和泉式部より二十才も歳下になり、
系図から藤原懐平と云われています。しかし懐平が肥前守であったかどうか、小式部生誕に至る事情はなんとも不思議なことばかりです。
あの若き日、止むに已まれず家を出た、仕方なく湖山の親元をたずねたが、そこで叱責され、帰るつもりがくやし涙を流したあの峠、
気が付けば白兎の海岸を西に歩き、旅をつづけていた。
伝説ですから信憑性は定かではありませんが、
和泉式部は幼名御許丸といい、佐賀県嬉野市で9才まで育ちました。
大江雅致は戸籍上の父ということになります。
それなら白兎の海岸を彼女が西に歩いた気持ちがわかります。
和泉式部は佐賀県嬉野の両親のもとを訪ねる途中 浜田で小式部を出産しましたが
旅の難儀から生まれたばかりの児を置いてゆかざるを得なくなりました。
しかし、故郷に帰りきることも出来ず、山口県小野田市でとどまり、世話になった郷士の死で再び上京を決意、
四年前止むに已まれず置いていった子供を、もしやの思いで探し、めぐり合い、
涙ながらに育ててくれていた人に事情を話して引き取り喜び勇んで京へ帰るところでした。
「大宰府の父と湖山の父」
短い時間で調べただけだが、
「和泉式部は、鳥取の湖山に確かに居た。」
と思うようになった。