弥生時代・卑弥呼と邪馬台国【その1】鳥取市_青谷上寺地遺跡_弥生人の脳・卜骨・楼観

鳥取市青谷町にある青谷上寺地遺跡展示館に、先日ふら~と行ってきた。

おっ!平成14年10月に皇太子同妃両殿下が来られた時の写真がある。
雅子さまは、
花は無理な時期だが、お印のハマナスを観られただろうか?
鳥取県はハマナスの南限地とされ、
白兎海岸近くや大山町松河原などに自生している。

琴の銅版に刻まれた動物の絵が、何ともいいデザイン!
翡翠の勾玉、管玉、木や鉄製の数々、細かな彫りも・・・

「弥生の博物館」「弥生のタイムカプセル」などとも呼ばれ、
大量の出土品の一部が展示されている。

現在の発掘調査は、第14次調査中。
平成24年6月11日から始まり、11月下旬頃までの予定。


青谷上寺地遺跡
●青谷上寺地遺跡展示館(あおやかみじちいせきてんじかん)
http://www.tbz.or.jp/kamijichi/
(一部抜粋)
  青谷上寺地遺跡は、国道青谷羽合道路及び県道青谷停車場井出線の建設予定地で、平成10年度から3年3ヶ月の期間をかけて、遺構面の面積で延べ約55,000m2が発掘調査されました。この発掘調査で、国内初・山陰初などの情報が多数得られ、出土品の保存状態が群を抜いて良好であったため、全国的に注目されました。

青谷平野と青谷上寺地遺跡の発掘調査地(南から望む) 

海に近い青谷上寺地遺跡では、稲作だけではなく、漁撈や狩猟を盛んに行っていたことがわかります。それは多くの農具や漁撈具、獣骨などが物語ってくれます。
 さらに、青谷上寺地遺跡の弥生人は、他の地域の人々と盛んに交流していました。九州系や北近畿系、吉備地方の土器も出土しています。石材においても、この近辺の石材だけではなく、ヒスイやサヌカイトなどが使われています。このことは、日本海を舞台とした交易や山を越えた交流が行われたことを示しています。さらに、360点を越える鉄製品や古代中国の貸泉(かせん)が出土したことによって、海を渡り北九州や遠くは朝鮮半島、中国大陸との交流も行われていたことが想像できます。そして、物の交流だけではなく、精巧な木製容器類に見られるように、技術の交流も盛んに行われていました。このことは、青谷上寺地遺跡が単なる村ではなく、海上交通の重要拠点であったことを裏付けています。
 遺跡の東側の溝では弥生時代後期の100人分を超える約5,300点の人骨が見つかり、110点の人骨に殺傷痕が見られました。このことから、何らかの争いがあったことが考えられます。また、驚いたことに日本で初めて弥生人の脳が3人分発見されました。
 青谷上寺地遺跡は、弥生時代の人々の生活だけではなく、技術のすばらしさ、豊かな自然環境、驚異の保存状が示す地質環境など、様々な分野で注目を浴びる遺跡だといえます。

人骨の殺傷痕について、様々な見解があるようだ。
中国「後漢書」東夷伝の2世紀後半の「倭国大乱」によるもの、
傷が多いので処刑されたのでは、など。

●鳥取県
青谷上寺地遺跡
http://www.pref.tottori.lg.jp/aoyakamijichi/
(一部抜粋)
 青谷上寺地遺跡は弥生時代前期末(約2200年前)から古墳時代前期初め(約1700年前)にかけて存在しました。弥生時代中期後葉(約2000年前)になって、大規模な護岸施設が作られたり、出土品の量も増えることから、この時期に集落の拡大があったと考えられます。
平成20年3月28日に国指定史跡となりました。

弥生人の脳
弥生人の脳
謎の動物が描かれた琴の側板

謎の動物が描かれた琴の側板
  青谷上寺地遺跡は「交易拠点としての港湾集落」と位置付けられます。
その根拠のひとつとして、他地域との交流を示す遺物の存在があげられます。
 粘土をこねて形を作り焼き上げた器を土器と呼びます。弥生時代の土器は時期と地域によって形や作り方が違うので、地元のものかそうでないかを見分けるのは比較的簡単です。
 また当時の技術力の差から、古代中国や朝鮮半島製の鉄器と見分けることができるものもあります。
 こうした出土品が青谷上寺地遺跡には多く見られます。
 単にモノが入ってくるのではなく、それに伴い人や情報も移動し、そして何かを手に入れるために別のモノを相手に渡す。これを交易と評価したいと思います。
 石器材料の一部には、中国山地の分水嶺を越えて運び込まれたものがあります。これは陸路によるのでしょうが、青谷上寺地遺跡に持ち込まれたさまざまなモノは海を介して持ち込まれたと思われます。ここで見つかった丸木舟や櫂は漁労活動だけでなく、物資の運搬にも使われたと考えられ、板に描かれた船団の姿は、当時の情景を写したものでしょう。


銅鐸
「聞く銅鐸」「見る銅鐸」
鐸破片。左下は「見る銅鐸」、あとの2点は「聞く銅鐸」。平成10年に出土した「見る銅鐸」は、当時日本海沿岸における西限例でした(その後島根県出雲市で出土)。

鐸破片。左下は「見る銅鐸」、あとの2点は「聞く銅鐸」。平成10年に出土した「見る銅鐸」は、当時日本海沿岸における西限例でした(その後島根県出雲市で出土)。
 卜骨
(ぼっこつ)
シカやイノシシの肩甲骨を点状に焼いて、ヒビの入り具合などで占ったと考えられます。
占いに用いた卜骨は200点以上見つかっています。
残念ながら何を占ったか分かりませんが、『魏志倭人伝』によれば事を始めるときに占ったとありますので、何をするにも、まずは神の意向を確認したのかもしれません。

卜骨

★卑弥呼の鬼道とは、卜骨?

楼観
●47NEWS
弥生集落に高さ7メートルの柱 鳥取、卑弥呼の楼観実証?http://www.47news.jp/CN/200611/CN2006111001000398.html
 弥生人の脳みそ発見で知られる鳥取市の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡で、1999年に見つかった長さ7メートル以上の木材が弥生時代後期(約1800年前)の建物の柱だったことが分かり、鳥取8 件県埋蔵文化財センターが10日、発表した。  弥生時代の柱としては最も高く、物見やぐらのような高さ5メートル以上の高床式建物があった可能性が高いという。  
鑑定した浅川滋男・鳥取8 件環境大教授(建築史)は「魏志倭人伝に記された卑弥呼8 件の宮室にあるという楼観は、こうした物見やぐらなのだろう。
絵画土器や発掘された柱穴の跡から推測されていた楼観の存在が、初めて実証された。最も高い場合、10メートルを超える建物だった可能性もある」と話している。  
木材は長さ7・2メートル、直径17センチ。先端が欠けており、元はもっと長かったらしい。水路の護岸材に転用されていたが、浅川教授が根元から約6メートルの部分に床を支える木材を差し込んだ貫穴があるのを発見。柱だったことが分かった。  また、2000年に出土した弥生時代中期(約2000年前)とみられる護岸用の板(長さ約65センチ、幅23センチ、厚さ3センチ)に、台形の溝を彫り同型の板を差し込む蟻棧(ありざん)という建築技法が使われていたことも判明。板が反るのを防いだり、2枚以上の板をつないだりする高度な技術で、出土例としては日本最古という。  同遺跡からはこれまでに建築材など木材約7000点が出土。データベースを作るため浅川教授らが再調査していた。

●鳥取県
「楼観」風の柱を確認!
http://www.pref.tottori.lg.jp/33000.htm
1 弥生時代最長の柱(弥生時代後期・約1800年前)
 ◆高さ5m以上の高床建物が推定可能
 ◆『魏志倭人伝』に記載の「楼観(ろうかん)」(高層建物)を実証する資料
  ・長724×直径17cm、弥生時代最長の柱、スギ材
  ・柱上部には大引(おおびき)が差し込まれる貫孔(ぬきあな)2箇所、
   90度の方向で設けられている。
  ・この日本最長の柱を基に、鳥取環境大学の浅川滋男先生に建物を復元した
   コンピューターグラフィックスを制作していただきました。

弥生時代最長の柱
弥生時代最長の柱

復元建物CG(制作:鳥取環境大学浅川研究室)
復元建物CG(制作:鳥取環境大学浅川研究室)

★まるで出雲大社!!!



邪馬台国は、
鳥取県・岡山県・島根県などの
中国地方の可能性はないのだろうか?
「大山の麓から、卑弥呼のものと思われる銅鏡97個を発見?!」

「鳥取砂丘の下に邪馬台国があった!」
などということは、有り得ない・・・のか?

邪馬台国の場所は今だに判明していない。
九州説・大和説・畿内説(奈良県、京都府南部、大阪府、兵庫県南東部)などがあるようだ。