弥生時代・卑弥呼と邪馬台国【その2】卑弥呼って誰?_崎元正教

青谷上寺地遺跡から卑弥呼を想った。

●みんなの経済新聞ネットワーク  9月25日
卑弥呼について新たな仮設を織り込んだ書籍、日の出町の崎元さんが出版 /東京
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120925-00000047-minkei-l13
 日の出町在住の崎元正教さん(64)がこのほど、「書紀にほのめくヒミコの系譜」(けやき出版)を出版した。(西多摩経済新聞)
 謎が多いとされる古代史研究の分野で、神社伝承などの資料を丹念に尋ねて検証を続けている崎元さん。同書には、卑弥呼や邪馬台国(やまたいこく)についての大胆な仮説や新説が織り込まれており、前作の「ヤマトタケるに秘められた古代史」同様、研究者、愛好家らの研究に波紋を投げ掛けそうだ。
 崎元さんは、「日本書紀」の紙背に卑弥呼の系譜がひそかに書き込まれていることに気づく。
「書紀」の神功皇后の巻には「魏志倭人伝(わじんでん)」が3度引用され、史家の間では「書紀」は卑弥呼を神功皇后と誤解したとする説もある。崎元さんは「神功皇后と誤解されるような引用は、書紀の編者の苦心の潤色」と推測。「何度も読み返すと、卑弥呼について多くのメッセージが埋め込まれていることに気づいた」という。
 
 そのメッセージから導き出したのが、卑弥呼の父母はスサノオと豊玉姫で、夫がニニギ(大己貴)、子がイワレヒコ(神武)という皇祖神の系譜だった。鳥取県や宮崎県を中心に約1万に及ぶ神社伝承や考古資料を調べ、その検証結果を同書にまとめた。
 崎元さんは神戸大大学院工学研究科を卒業後、日立製作所に就職。27年前に故原田常冶の著作「古代日本正史」を読み古代史への興味を持った。退職後は古代史研究に専念。2005年に「ヤマトタケるに秘められた古代史」を出版した。「ヤマトタケるはたけうちのすくね(たけうちのすくねに)の若き姿」などの仮説は歴史愛好家の間で大きな反響を呼び、中村啓信國學院大名誉教授や森浩一同志社大名誉教授、渡辺利夫拓殖大総長らから温かい激励の手紙を受け取った。第9回日本自費出版文化賞研究・評論部門で入選も果たした。
 崎元さんは「日本書紀は脚色されていても真実を伝えている。そこに気づくことが大切。『書紀の編者からみんなに分かるように語ってくれ』と言われているような気がして、今回の執筆の原動力になった。今後は神武を中心にした大和朝廷の建国史についての研究をまとめたい」と話している。
 体裁はA5判並製346ページで、価格は2,100円。全国書店で販売中。

●日本建国史  -『日本書紀』は知っていた-
http://www.geocities.jp/shoki_otoku/


崎元さんは、
鳥取県で卑弥呼の何を知ったのだろうか?


●wikipedia「スサノオ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B5%E3%83%8E%E3%82%AA
スサノオ(スサノヲ、スサノオノミコト)は、日本神話に登場する神である。『日本書紀』では素戔男尊、素戔嗚尊等、『古事記』では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと、たてはやすさのおのみこと)、須佐乃袁尊、『出雲国風土記』では神須佐能袁命(かむすさのおのみこと)、須佐能乎命などと表記する。
スサノオの系図(『古事記』による)。青は男神、赤は女神
『記紀』神話においては出雲の神の祖神として書かれているスサノヲであるが、『出雲国風土記』では彼はあまり登場せず、意宇郡安来郷や飯石郡(いいしのこおり)須佐郷などの地名制定や御子神たちの説話が書かれており、八岐大蛇退治の説話は記載されていない。そのため元々は別の地方の神ではないかとする説もあり、その地として、以下のような説がある。

『日本書紀』の一書で八岐大蛇退治が行われたとする備中国とする説
大国主がスサノヲのいる根の国へ行く前に「木の国」へ行っていること、子の五十猛が祀られているとしていることなどから紀伊国(熊野)とする説
『日本書紀』一書第4のまず新羅の曽尸茂梨に天降ってから出雲の鳥上峯に来たとの記述から、新羅の神とする説

●wikipedia「卑弥呼」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC
(一部抜粋)
・現代日本語では一般に「ひみこ」と呼称されているが、当時の正確な発音は不明。
・表記は「卑彌呼」、『三国志』魏書 帝紀では「俾彌呼」。
・卑弥呼が死に、墓が作られた。(『梁書』では正始年間(240年 - 249年)に卑弥呼死亡)
・男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。
・卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。
・女王位についた壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
・泰始元年(265年) - 倭の遣使が重ねて入貢。『晋書』邪馬台国からの最後の入貢。
・卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 ?葬者奴碑百餘人(卑弥呼は死に、直径100余歩の大きな塚が作られ、奴婢100余人が徇葬された)
・卑弥呼の死んだ時期は弥生時代から古墳時代への移行期に当たり、邪馬台国畿内説では卑弥呼の墓は古墳の可能性がある。
・箸墓古墳(宮内庁指定では倭迹迹日百襲姫命墓)とする説もある。九州説では、平原遺跡を卑弥呼の墓とする説などがある。
・奈良県御所市玉手山の尾根が径百余歩で、卑弥呼の墓という説が近年出された。この説は六代孝安天皇を卑弥呼の男弟とする説で、孝安が葬られたとする玉手山にその古墳が存在することを重要な根拠とする。
・神功皇后=卑弥呼説をただちに導くことはできないと考えられ、現在この説に対する支持は少なくなっている。
・中国の史書に残るほどの人物であれば、日本でも特別の存在として記憶に残るはず。
・日本の史書編纂者にとって都合が悪い事実であっても何らかの形で記されたはずであり、日本の史書でこれに匹敵する人物は天照大神(アマテラスオオミカミ)しかないとする説。
・卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命=天照大神の説もある。

光和年間(178年 - 184年) - 卑弥呼が共立され、倭を治め始める。『梁書』
景初三年(239年) - 卑弥呼、初めて難升米らを中国の魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられる(『三国志』では同二年(238年))。
正始元年(240年) - 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。
正始四年(243年) - 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
正始六年(245年) - 難升米に黄旗を仮授与(帯方郡に付託)。
正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、援を請う。難升米に詔書、黄旗を授与。
正始九年(248年) - またはその前後