日吉神社(布勢の山王さん)_天穗日命神社_前方後円墳・布勢古墳_湖山池_鳥取市布施

日中の暑さに体がフラフラ。頭がボォー~~~。ダウン寸前。
なので夕方に1時間近くの散歩。日吉神社へ。
アチコチ蚊に刺されてしまった。ヒェ〜〜〜〜

日吉(ひえ)神社

・鳥取市布勢469
・湖山池の東側の卯山(標高40m)に鎮座。
・国の史跡「布勢古墳」と同じ丘陵にある。
・起源は室町時代・文和3年(1354年)。因幡、但馬など6国の守護職であった山名時氏が布勢天神山に城を構え、近江国(滋賀県)比叡山山麓坂本にある日吉神社の御分霊を勧請して祀ったのが始まりと伝えられている。
・日吉神社は昔から「布勢の山王(さんのう)さん」とも呼ばれ親しまれている。
・神社境内には、山王の神の使いとされる猿の彫像が多数奉納されている。
・小児の疳を治す神社として有名で、子どもの守り神や安産の神としても崇められている。
・例祭が行われる5月5日(以前は15日)には、神社から和紙に包んだ小さな猿のお守り「おさるさん(男の子は白い猿、女の子には赤い猿)」が配られ、着物に縫いつけたり、お守りにして肌身離さず身につける。翌年のお礼参りには、成就のお礼や災難などが「去る」願いを込め、新たに猿の縫いぐるみを加えて神社に奉納する。
・境内社の天穂日命社


県道181号線にある鳥居から。

もうすぐ。

神社社務所裏に宝篋印塔がある。
市指定有形文化財「山王社地宝筐印塔」の看板
山王社地宝筐印塔が文献に最初に現われるのは、江戸時代前期の著作『因幡民談記』で、
布施(勢)城図の中に「ホヒロヒ五リン」として山王社参道脇に図示されています。江戸時代中期の著作『因幡誌』は正しく宝筐印塔とし「昔は山王の社前の松原の道より北の方の田の中にありしと、近年社司の後園に安んず。按ずるにその型式宝経印塔なり」と記しています。「近年社司の後園に安んず」というのは現在の位置(社務所の裏庭)に相当すると考えられ、参道脇から移されて約二百年ほど経過したことになります。石塔は花崗岩でつくられ表面の摩滅が著しく、相輪部は失われています。基礎の側面には「中心飾りつき格狭間」をもっており、これは但馬・丹波地方の特色です。塔身の四面すべてには、月輪で囲まれた金剛界四仏の梵字が刻まれ、笠は標準的な段型で隅飾りはやや外側へ傾斜しています。製作年代は南北朝前期から中期にかけての頃と推察されています。
平成15年3月
鳥取市教育委員会


手水舎。初めて出会う猿。打出の小槌を持っている。

「山王宮」と書かれた提灯が見える。

石段参道踊り場にもお猿さん。
神社説明板。

拝殿を護るお猿さん。二匹とも金色の幣を持つ。(明治時代?)
本殿脇には、ブロンズの大きな猿。
右の雄は金幣を担ぎ、左の雌は子どもの猿を抱いている。(昭和?)


本殿の下に置かれたかなり古そうなお猿さん達


布勢古墳に向かう坂から

拝殿はガラス板。

 見事な灯篭や古木も沢山。

「天穂日命(あめのほひ)」
この社は天穂日命(出雲臣らの祖先とされた神)を祀ったものです。
ご神体は社務所の裏庭に奉られている宝筐印塔(穂拾塔)と言い伝えられている。

天穂日命社と御神木?
椿も元気に生長している。

※鳥取市内には、別の場所にも「天穗日命神社」がある。

<備考>Wikipedia
「天穗日命神社 (あめのほひのみことじんじゃ)」
鳥取県鳥取市福井字・宮ノ谷361
創建年代は不明、『因幡志』によれば古くは高草郡布勢の現日吉神社社地にあったという。古代豪族・因幡国造氏の氏神として祀られ、因幡国造氏の勢力拡大と共に成長した。貞観9年(867年)5月には正三位に叙せられ、官社に列した。9世紀半ばには宇倍神社より上位の神階に列し、因幡国内で第一の神社であった。『延喜式』には高草郡七座小社のひとつとして記載されている。室町時代末期に現在の社地に移転したと考えられ、江戸時代には六王(むおう)大明神と称した。明治元年(1868年)、現在の社名に改称、明治3年(1870年)には福井村の荒船社を合祀した。明治12年(1879年)には荒船社を元の社地に荒船神社として分祀したが、荒船神社は大正3年(1914年)、稲荷神社と共に同神社に合祀された。

<備考>Wikipedia
アメノホヒ
アメノホヒは、日本神話に登場する男神。天之菩卑能命、天穂日命、天菩比神などと書かれる。
アマテラスとスサノオが誓約をしたときに、アマテラスの右のみずらに巻いた勾玉から成った。物実の持ち主であるアマテラスの第二子とされ、アメノオシホミミの弟神にあたる。葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服してその家来になってしまい、地上に住み着いて3年間高天原に戻らなかった。その後、出雲にイザナミを祭る神魂神社(島根県松江市)を建て、子の建比良鳥命は出雲国造らの祖神となったとされる。
任務を遂行しなかったというのは『古事記』や『日本書紀』による記述だが、『出雲国造神賀詞』では異なる記述になっている。これによれば、アメノホヒは地上の悪神を鎮めるために地上に遣わされ、地上の様子をアマテラスにきちんと報告し、子のアメノヒナドリおよび剣の神フツヌシとともに地上を平定した、としている。すなわち、こちらでは地上を平定した偉大な神とされているが、『出雲国造神賀詞』はアメノホヒの子孫である出雲国造が書いたものであるので、そこは割り引かなければならないかもしれない。
名前の「ホヒ」を「穂霊」の意味として稲穂の神とする説と、「火日」の意味として太陽神とする説がある。


布勢古墳

境内の裏には、国の史跡に指定された約1500年前の前方後円墳・布勢古墳(全長60m)がある。因幡地方の有力豪族の墓と考えられているが、発掘はされていない。
湖山池を見るビューポイントのひとつ。