戦争_原爆投下後の広島「被爆死、託された遺書」_鳥取県大山町末長の元看護師・山根正子さん_島根県安来町(現・安来市)の差海加吉さんの遺書

●朝日新聞 2012年08月16日
被爆死、託された遺書
http://mytown.asahi.com/tottori/news.php?k_id=32000001208160001

 「兄上は、何かと、父を見てやって下さい。末子しっかりやって行くやうに。(中略)父上様、母上様、兄上様、弟よ、姉よ、妹よ、御健在を祈ります」――。

◆元看護師・山根さん 無意味さ問う

 1945年8月、原爆投下後の広島に舞鶴海軍病院鳥取赤十字病院(現・鳥取赤十字病院)の救護班として入った大山町末長の元看護師、山根正子さん(87)。被爆し、亡くなった28歳の男性がつづった、家族あての遺書を託された。家族への優しさが詰まった手紙。戦後67年がたった今、山根さんは改めて戦争の悲惨さ、平和のありがたさを訴える。

◆終戦直後の広島へ

 山根さんが救護班の一員として広島に向かったのは、8月20日。鳥取駅から列車に乗り広島を目指した。広島に着き列車を降りて、駅を出るとあたり一面真っ黒な焼け野原だった。がれきだけの建物一つない静寂の世界。「神社の鳥居だけがぽつんと立っていた。肝がつぶれた。全てが燃えてくすぶった形容しがたいにおいだった」。川の縁や土手などあちこちに死体があった。泊まる場所などあるはずもなく、その日は川のほとりで野宿した。

原爆が投下された広島での救護活動の様子を語る山根正子さん=大山町末長

◆「この人もだめだ」

 翌朝、臨時救護所となった宇品(現・広島市南区)の船舶兵舎に向かった。救護所といっても薬はなく、被爆者を広場に集め、気休めにビタミン注射を打つだけだった。運ばれてくる人はほとんどが末期状態で、苦しさから頭をたたく人、大きな声で怒鳴る人。「この人もだめだ、この人も、と嘆くだけだった」

 運動場にある火葬場にどんどん死んだ人を運び、空いた所に重傷の人を寝かせた。横たわる人の鼻から口から耳からウジが湧いてきた。山根さんの耳には、「何とかして下さい」という被爆者の声が今でも残っている。

 そんな中で、一人の男性の手紙を人づてに預かった。島根県安来町(現・安来市)の差海加吉さんが最後に家族にあてた遺書だった。山根さんは生家が旧淀江町(米子市)だったため、わずかな休みで家に帰った時に投函(とう・かん)した。

山根正子さんが届けた差海加吉さんの遺書。紙は、茶色く変色していた=米子市錦海町

◆半世紀過ぎ来訪者

 時が経つにつれ、手紙のことは忘れていたが、半世紀以上過ぎた2001年9月、大山町の自宅に突然の来訪者があった。「山根さん。本当にありがとうございました」。訪れたのは、差海さんの弟夫婦だった。

 その時、初めて手紙の中身を知った。手紙には、「八月五日廣島分遣を命ぜられ六日の朝爆撃を受け(中略)ついに二十八歳の生涯を閉ずることになりました」とつづられていた。

 「茶色く変色した紙には家族を思う優しい思いがあふれていた。届けた手紙を宝として大事にしてくれたうれしさと、被爆後のあの惨状の中で、若くして亡くなった差海さんを思い胸がつまった」

 山根さんには不思議と記憶に残る場面がある。それは広島駅から宇品に向かう線路を歩いた時の風景だ。不意に線路脇の畑にある目の覚めるような黄色いカボチャの花が飛び込んできた。「駅周辺のあの惨状を見た直後のあの鮮やかな美しさ。なぜ戦争をしたのか。たくさんの命が失われた。戦争ほど無責任なことはない」(佐藤常敬)
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「平和」
大人たちが、子供たちに残すべきもの。