卑弥呼が葬られた墓
卑弥呼が葬られた墓・福岡県田川郡赤村「鍵穴型丘陵」岡山県倉敷市「楯築墳丘墓楯」三重県鳥羽市安楽島町松の本「松の鼻古墳」伊射波神社・男王卑弥弓呼の狗奴国は濃尾平野・伊勢平野で王都は桑名市多度町・不思議・歴史・日本史・古代・倭国・古墳・遺産・本・書籍・ミステリー・ミステリアス・ロマン・話題twitter
NHKによると、魏志倭人伝にある卑弥呼の“以死”というのは自然死ではないそうです。 敗戦の責任でも取らされて部下に殺されたのではないかとのことです。卑弥呼の死後の 奈良地方からは、敵国であった、尾張地方の、狗奴国の土器が...
卑弥呼の死が247年か248年か(あるいはさらに後か)については説が分かれている。
また247年(正始8年)の記述は、240年(正始元年)に梯儁が来てから以降の倭の出来事を伝えたものとすれば、卑弥呼の死も240年から246年ごろに起きた可能性が高い。
卑弥呼の墓はまだ見つかっていない。
八倉比売神社・平原遺跡・石塚山古墳・祇園山古墳
纏向遺跡・吉野ヶ里遺跡・西都原古墳群・宇佐神宮
▼奈良県桜井市の箸墓古墳
箸墓古墳(宮内庁指定では倭迹迹日百襲姫命墓)
邪馬台国畿内説の奈良県桜井市の箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説があるが、箸墓古墳の後円部は約150mの巨大な前方後円墳であり、魏志倭人伝による規模と形状が異なる。築造年代は3世紀第3四半期頃であるとの説があるが、卑弥呼の死去が3世紀中期なので時期的に矛盾する。
▼宮崎市の生目古墳群1号墳
宮崎市の生目古墳群1号墳、掘ったら「親魏倭王」の金印が出てきそうなんだよなあ。もう何十年も未調査のまま放置されてるんだけど。【幸田蒼之助の休日】氷解!! 魏志倭人伝の謎 ? 卑弥呼の墓が宮崎市にある!!
▼福岡県田川郡赤村内田小柳地区・田川地域の「鍵穴型丘陵」
「卑弥呼の墓では」巨大な前方後円墳?謎の丘陵 日本最大に迫る全長450メートル [福岡県]
▼岡山県倉敷市矢部の「楯築墳丘墓楯」
これまでにわかっているこの時期のお墓では日本一の大きさです。
楯築遺跡が築かれたのは、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国があったとされるころです。この遺跡に埋葬された人は女王卑弥呼のように力のある人物で、吉備地方全体の支配者だったのかもしれません。
卑弥呼は吉備出身か?・・竜神と卑弥呼 箸墓古墳に竜のデザイン
倉敷市の楯築墳丘墓
卑弥呼の出身地が吉備地方であり、偉大な王の死に際して、吉備勢力がみずからの象徴物を奉献したと考えるのが、考古学的にはもっとも自然ではないだろうか。
(春成秀爾・国立歴史民俗博物館名誉教授・考古学)
▼三重県鳥羽市安楽島町松の本の「松の鼻古墳」
「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦
箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない。鳥羽の安楽島町と伊射波神社との間にある松の鼻古墳が卑弥呼の墓と思われる。
昭和30年代中高生が剣と土器を発掘し鳥羽市へ寄付した」そうです。「松」の鼻古墳は、姫小「松」に見立てられた稚日女尊(卑弥呼)の古墳と思われる。
安楽町松の木にある古墳で、石室が露呈しており須恵器杯、器台が出土している。現在の地目は山林になっている。
▽三重県 伊射波神社(いさわじんじゃ)
倭姫命は伊勢国に引き返すのではなく志摩国に留まり、神社の祭神である稚日女命に変身して安楽島の伊射波神社を終の棲家とした。姫小松(稚日女命)の松の鼻古墳もある。松の鼻古墳が卑弥呼(日皇女=孝霊天皇の皇女)の墓と思われる。
三重県鳥羽市安楽島町(あらしまちょう)
祭神
・稚日女尊 (わかひめのみこと)
『公式ガイドブック 全国一の宮めぐり』では天照大神に仕えた神と紹介。
『日本書紀』に記載されている神功皇后が三韓征伐を行う際に現れた「尾田(現、三重県鳥羽市の加布良古の古名)の吾田節(後の答志郡)の淡郡(粟嶋=
安楽島)に居る神.」の事であり、兵庫県神戸市の生田神社に鎮座する前はこの伊射波神社に鎮座していた神である。
・伊佐波登美命 (いざわとみのみこと)
平安時代末期から鎌倉時代中期の成立とされる『倭姫命世記』によれば、垂仁天皇の御世に皇女倭姫命が皇大神宮の朝夕の御贄を奉る地を探して志摩国を訪れたとき、この神が出迎えたとする。『公式ガイドブック
全国一の宮めぐり』[によれば、安楽島の二地(ふたぢ)の鳥羽贄遺跡がこの神の本宮跡で、平安時代後期に現在地へ移ったと言う。
・玉柱屋姫命 (たまはしらやひめのみこと)
伊雑宮の『御鎮座本縁』などでは天叢雲命の裔、天日別命の子である。『公式ガイドブック
全国一の宮めぐり』では伊佐波登美命の妃神と解説。
・狭依姫命 (さよりひめのみこと)
『公式ガイドブック 全国一の宮めぐり』では宗像三女神の1柱市杵島姫命の別名で、近くの長藻地と言う島に祀られていたが、島が水没したので当社に合祀されたと言う。
伊射波神社(イサワジンジャ)
鳥羽三女神のひとつ。良縁をもたらすとされる志摩の国の一の宮。
伊射波神社本宮の祭神は稚日女尊(倭姫=卑弥呼)と伊射波登美命(大田命=高山土公命・猿田彦命の子孫)。藤原氏は玉柱屋姫=瀬織津姫)を捻じ込んだ。また伊射波登美命を大歳神だと大嘘を撒き散らした。倭姫と大田命の神社→伊射波神社
▼三重県桑名市
桑名市北部には野志里神社があり、ヤマトヒメの野代宮であると伝承されているようです。
右岸側の野志里神社は卑弥呼の都に対応します。
祭神はアマテラス他の神々です。
左岸側には多度大社があって、卑弥呼の墓に対応します。
祭神は天津彦根命といって、スサノオとの誓約で生まれたアマテラスの御子神とされています。
▽三重県桑名市 野志里神社
『倭姫命世紀』の倭姫命が天照大神を奉じて美濃の伊久良河宮から尾張中島宮にお移りになり、さらに御船に乗られて桑名郡野代宮にお着きになり、四年間この地で宮居を造られ、國造大若子命が参じ相共にお仕へしたと云ふ。倭姫命は、その後伊勢に追孝され、その野代官の行宮の跡に本社を則祀して野志服神社と唱へたものである。
なお現在、神職は不在で、多度大社が兼務している。
御祭神《主》天照大神
倭姫命は、大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、伊勢神宮内宮を創建したとされます。
伊勢神宮に巫女として奉仕した斎王。第1代は豊鍬入姫命、第2代は倭姫命とされていて、また倭姫命=卑弥呼という説もあります。
倭姫命が伊勢神宮を創建するまでに、八咫鏡を順次奉斎した場所は「元伊勢」と呼ばれ、桑名市内にも所縁の地が有ります。
伊勢の国に入り、八咫鏡を4年間お祀りしたのがこの神社とされています。
▽三重県桑名市 多度大社
古代には、社殿背後の多度山を神体山としていた。
神が坐します神体山と仰ぐ多度山(標高四〇三メートル)の麓に御鎮座する当大社は、御創祀は定かではないが、山中に遺された数多の磐座・御神石から推して、神代の古に遡ることが出来る。
明和七年(1770) 集中豪雨により銅鏡三十面、古鈴等が出土する
男王卑弥弓呼の狗奴国は濃尾平野・伊勢平野で、王都は三重県桑名市多度町
狗奴国は濃尾平野、伊勢平野を版図とする大国で、男王卑弥弓呼が執政した王都は旧桑名郡多度町付近と比定した。
▼卑弥呼の死は?
卑弥呼は殺されたのか? 戦死か? 老衰か?自殺か?【卑弥呼 ... - YouTube
アップロード元: はじめての三国志TV・三国志の世界観や登場人物を『楽しく・ゆるく・わかりやすく』をモットーに紹介する
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卑弥呼は暗殺されたか? 戦死か? 老衰か?
倭国には呪力のなくなったシャーマンを殺す習慣があった!?
それでは、卑弥呼の死因は何であったのか? この点について「魏志倭人伝」を注視するならば、狗奴国と戦争中であったことがわかる。その最中に亡くなったということを重視すると、戦死ということが浮かんでくる。狗奴国との戦いは長期にわたったようであり、しかも狗奴国の勢力は強大であったことが、卑弥呼の魏への支援要請からも感じられる。そうした中で、卑弥呼が戦陣で倒れたということは、ひとつの説として十分に成り立つように思われる。
また、狗奴国との交戦を重視する考えでは別の死因も考えられている。それは、長期にわたる戦いにもかかわらず、勝利を得られないことに対する責任を取らされたというものである。張政らがやってきたのは、卑弥呼への責任追及のためとみるのである。戦況が長期間にわたって思わしくないことを考えれば、この説も可能性として成り立つと思われる。
こうした狗奴国との戦いに、巫女としての卑弥呼の性格を加味して、殺害されたという説も出されている。卑弥呼が亡くなったと推測される247年には九州で日食が、翌248年には大和(やまと)で日食がそれぞれ起きている。2年続けての日食、すなわち天変地異(てんぺんちい)は、当時の人々に大きな不安を与えたのは確かであろう。加えて狗奴国との戦いは先が見えない状況である。これらは、女王である卑弥呼の責任であるということになったのではなかろうか。特に日食という不気味な天変地異は、卑弥呼の巫女としての呪力がなくなったと考えられても不思議はない。こうした理由で卑弥呼は殺されたというのである。巫女としての卑弥呼と日食を結びつけた考えは興味深く、こうした説も成立する可能性はあるであろう。しかし、細部にわたってみるならば、247年の日食は九州でのものとされ、翌248年のものは大和でのものといわれており、場所が異なる点をどのように理解するのかという点や、日食がどうして卑弥呼だけの責任にされるのかといった点をもう少し考えなければならないであろう。
卑弥呼の巫女的性格という点では、むしろ、「魏志倭人伝」に見られる持衰(じさい)が興味深い。倭国では、外洋に航海するさいに1人の持衰を乗せたという。持衰は航海中、頭髪もととのえず、しらみもとらず、衣服は垢でよごれても取り替えることなく、肉も食べず、女性も近づけず、まるで喪に服したように禁を守り続けるとある。そして、航海が無事にすめば財物などが与えられるが、航海がうまくいかなかったときは責任を取らされて殺されたといわれている。ここに見られる持衰もシャーマンといってよいであろう。そして、持衰の責任の取らされ方を参考にするならば、戦争に勝利できなかった卑弥呼が殺害されたという可能性も否定できないように思われる。
最後に、最もドラマチックでない死因について述べるならば、老衰説である。卑弥呼の年齢について「長大」とあった点にこだわり、しかも「長大」を老齢とみるならば、卑弥呼は老衰で亡くなったというのが案外、自然かもしれない。いずれにしても謎はつきないのである。
wikipedia「卑弥呼」
・現代日本語では一般に「ひみこ」と呼称されているが、当時の正確な発音は不明。
・表記は「卑彌呼」、『三国志』魏書 帝紀では「俾彌呼」。
・卑弥呼が死に、墓が作られた。(『梁書』では正始年間(240年 - 249年)に卑弥呼死亡)
・男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。
・卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。
・女王位についた壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
・泰始元年(265年) - 倭の遣使が重ねて入貢。『晋書』邪馬台国からの最後の入貢。
・卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩
?葬者奴碑百餘人(卑弥呼は死に、直径100余歩の大きな塚が作られ、奴婢100余人が徇葬された)
・卑弥呼の死んだ時期は弥生時代から古墳時代への移行期に当たり、邪馬台国畿内説では卑弥呼の墓は古墳の可能性がある。
・箸墓古墳(宮内庁指定では倭迹迹日百襲姫命墓)とする説もある。九州説では、平原遺跡を卑弥呼の墓とする説などがある。
・奈良県御所市玉手山の尾根が径百余歩で、卑弥呼の墓という説が近年出された。この説は六代孝安天皇を卑弥呼の男弟とする説で、孝安が葬られたとする玉手山にその古墳が存在することを重要な根拠とする。
・神功皇后=卑弥呼説をただちに導くことはできないと考えられ、現在この説に対する支持は少なくなっている。
・中国の史書に残るほどの人物であれば、日本でも特別の存在として記憶に残るはず。
・日本の史書編纂者にとって都合が悪い事実であっても何らかの形で記されたはずであり、日本の史書でこれに匹敵する人物は天照大神(アマテラスオオミカミ)しかないとする説。
・卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命=天照大神の説もある。
光和年間(178年 - 184年) - 卑弥呼が共立され、倭を治め始める。『梁書』
景初三年(239年) - 卑弥呼、初めて難升米らを中国の魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられる(『三国志』では同二年(238年))。
正始元年(240年) - 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。
正始四年(243年) - 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
正始六年(245年) - 難升米に黄旗を仮授与(帯方郡に付託)。
正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、援を請う。難升米に詔書、黄旗を授与。
正始九年(248年) - またはその前後
倭国〜邪馬台国〜狗奴国
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卑弥弓呼、卑彌弓呼(ひみここ、生没年不詳)は、『魏志倭人伝』に記録される狗奴国の男王、3世紀の倭国(現在の日本)の人物である。内藤湖南は、卑弥弓呼素(ひめこそ)であるという説を唱えた。
狗奴国の北に位置する邪馬台国の女王卑弥呼とは不仲であり、247年(魏の暦法による正始8年)、戦争を起こしたと記録されている。
2世紀後半?3世紀前葉に吉備や出雲には「楯築墳丘墓や西谷墳墓群」などの大型墳墓群が登場し、倭人国吉備と東?人国出雲は連携して大陸、朝鮮半島での「移民事業」を立ち上げていたから、邪馬臺国と狗奴国の戦いなどある筈も無く、両国は実際には同盟的な立ち位置を確保していた。
四隅突出型墳丘墓 西谷墳墓群
http://wajinden.com/邪馬台国はどこか?/
「ヤマタイコク」の所在は近畿、九州説に限らず、北は東北地方から南は沖縄まで、日本各地でその存在を主張しているのである。
日本の史料には「ヤマタイコク」は存在せず、中国の『魏書』の東夷伝倭人の条に2000字の記載があるのみである。わずか2000字の解釈(方角や距離)を巡って幾多の論争がおきたが、文献資料から結論が得られることはないだろう。
ならば考古学的な発見に期待したいところだが、有力な遺跡(纒向遺跡や吉野ヶ里遺跡など)は多数発見されているものの、決定的な証拠はみつかっていない。(新聞などのメディアをみていると、歴史学〈大学〉のパワー関係もあり畿内説に傾きつつあるような気配もあり、、、。また研究母体でもある自治体側も観光資源になりえる発掘成果に期待を寄せ、わが町こそ邪馬台国だと主張する。)
邪馬台国の位置や卑弥呼の墓が確定するときは来るのでしょうか。実は『魏志倭人伝』の記述を素直に読むと、邪馬台国は日本を遠く離れたパプアニューギニア方面の海上にあることになってしまいます。世紀の大発見がない限り、決着は難しいでしょう。
第6節 魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の都の一番の候補地は志摩国の伊射波神社周辺である
伊射波神社パンフレットから
志摩国一宮 伊射波神社 (いさわじんじゃ) 通称 かぶらこさん
〔鎮座地〕 三重県鳥羽市安楽島町字加布良古1020
〔社格〕 旧無格社 志摩国答志郡の式内社・粟嶋坐伊射波神社二座(並大)
〔御祭神〕 稚日女尊(わかひめのみこと)
伊佐波登美尊(いさわとみのみこと)
玉柱屋姫命(たまはしらやひめのみこと)
狭依姫命(さよりひめのみこと)
〔御由緒〕 天照大神に仕えていた稚日女尊を加布良古岬(かぶらこみさき)に祭祀したことが創祀とされ、志摩地方の海上守護神として信仰されてきた。『延喜式』にも記載され、加布良古大明神・志摩大明神とも称されている。倭姫命が伊勢神宮に御贄(みにえ)を奉ずる地を捜し求めた際、この地で出迎えたとされる伊佐波登美尊は、安楽島の二地(ふたじ)にあった本宮で祀られていたが、平安時代後期に岬の現在地へ遷座された。発掘調査された二地の「鳥羽贄遺跡」がその本宮跡とされる。この神は新田開発に功績を遺され、志摩国の開拓祖神とされる。玉柱屋姫命はその妃神で天日別命の御子神。狭依姫命は宗像三女神の一である市杵島姫命の別名で、近くの長藻地という島に祀られていたが、島が水没したため伊射波神社へ合祀された。境内には籠堂と、平成十三年に改築された神明造の本殿・拝殿がある。
御祭神について
伊佐波登美尊は、第十一代垂仁天皇の皇女倭姫命が、伊勢国内宮に天照大神の御魂をご鎮座させた折、これを奉迎して鎮座に尽力し、また志摩国の新田開発にも大きな功績を残したと伝えられています。後、大歳神と号された尊は伊射波神社本宮の衰退と共に、加布良古崎の伊射波神社に遷座されました。
玉柱屋姫命は『倭姫命世紀』によれば、天孫瓊々杵命(ににぎのみこと)の重臣で水の神として崇敬された天牟羅雲命(あめのむらくものみこと)の裔(子孫)で、神武天皇の勅により伊勢国を平定した天日別命(あめのひわけのみこと)の娘と記されています。
大二座のもう一座は、稚日女尊を祀る加布良古崎の伊射披神社。霊験あらたかな神様として知られる稚日女尊は、加布良古太明神とも称され、朝廷に捧げる贄物の一部を太明神にも奉納するいう別格の扱いを受けていました。「加布良古の外峯(とみね)に立てる姫小松、沢立てる松は千世のためし。加布良古の沖の汐ひかば、宮古(都)へなびけ我もなびかん。加布良古の大明神に、遊びの上分(じょうぶん)参らする請玉(うけたま)の宝殿(たからのみやから)」 これは今から461年前書き写された「外宮摂末社神楽歌」の最後の方の一節です。古代、安楽島の前の海では、朝廷に捧げる貝(あわび)を採る神事が行なわれ、その様子を歌ったものです。加布良古太明神ともいわれた女神、稚日女尊を姫小松に見立て、「この松は千年の後も栄えるでしょう。加布良古の沖の汐がひいたら、神事で採れた貝を納めに都へ行きます。加布良古の太明神に分け前を奉納してから」というものです。この神楽歌から、古代伊勢神宮とは浅からぬ関係にあったことが推測されます。『神宮紀(じんぐうき)』によれば、「尾田(おだ)(加布良古の古名)の吾田節(あごとうし)(後の答志郡)の淡郡(あわのこうり)(粟嶋=安楽島)に居る神(稚日女尊)とあります。稚日女尊は天照大神の妹君、分身とも云われ、第十五代応神天皇の母君である神功皇后の崇敬厚く、皇后が筑紫国(九州)から倭国に凱旋した折にも、常に御許においてお祭りされていました。
狭依姫命は、宗像三女神の一柱である市杵島比売命の別名で、厳島神社のご祭神でもあります。安楽島では、粟嶋と呼称されていたころ、神乎多乃御子神社(小一座)のご祭神として、加布良古崎の前海にあたる長藻地(海図では長藻瀬とある)という島嶼(とうしょ)にお祭りされていましたが、戦国の世地震によって、その社地は海底1.8mに水没してしまいました。幸いご神体(石体)は村人らによって見つけ出され、現在は伊射波神社に合祀されています。
? 私見
(1) 「伊佐波登美尊は、第十一代垂仁天皇の皇女倭姫命が、伊勢国内宮に天照大神の御魂をご鎮座させた折、これを奉迎して鎮座に尽力し」とあるが、第十一代垂仁天皇ではなく第七代孝霊天皇であり、伊勢国内宮ではなく志摩国伊雑宮であった。倭姫命は伊勢国に帰っていない。伊勢国ができたのは奈良時代以降である。倭姫命は纏向遺跡と同時代の姫である。藤原氏は2か所改ざんしている。伊佐波登美はイザワ地域にいたトミ(出雲神族=鬼)であった。卑弥呼も役行者と同じく鬼神を使役した。
(2) 古代、安楽島の前の海では、朝廷に捧げるアワビを採る神事が行なわれていました。加布良古太明神ともいわれた女神、稚日女尊を姫小松に見立て、「この松は千年の後も栄えるでしょう。加布良古の沖の汐がひいたら、神事で採れた貝を納めに都へ行きます。加布良古の太明神に分け前を奉納してから」と歌にも詠まれています。
(3) 纏向遺跡よりアワビの殻が多く出土した。このことより由緒にある都・朝廷とは奈良の纒向に造られた朝廷と思われる。稚日女命は纒向と同時代の姫と思われる。稚日女命は倭姫命(倭迹迹日百襲姫)でもあるから全国の代表者を集めての纒向での祭祀は稚日女命がしていたと思われる。
(4) 稚日女命(倭姫命)は身の安全のため吉野町宮滝経由で纒向に行き、帰りは和歌山の玉津島神社から船で海流に乗って紀伊半島を廻り伊射波神社まで帰った。これは追いかける者がいても途中で追手を撒くためであった。
「邪馬台国は三重県にあった」を読んでの感想
旅行中志摩市にいるときに、「邪馬台国は三重県にあった」直井裕著という本を知り読んでみました。
邪馬台国は三重県にあった理由として以下の理由をあげておられる。青玉は蛍石であり三重県で取れる。真珠もとれる。丹(辰砂)や水銀も取れる。海辺の国でありサメ避けの入れ墨をしている。冬でも野菜が採れる。伊勢市の遺跡は弥生時代後期になって急に増えている。距離方角も上げておられるが、私にはよくわかりませんので割愛します。卑弥呼は伊勢神宮の近くにいたのではないか、としておられる。狗奴国の狗は犬であり、愛知県には犬を一緒に埋葬している墳墓が多く見つかることと、抜歯の仕方より、狗奴国は愛知県にあった、としておられる。邪馬台国三重県説はこの方以外に知らない。
私は日女命(卑弥呼)がいるべきところにすべて稚日女命がいたので、これは神社の祭神が改ざんされているということに気づいて、稚日女命を祀る神社の由緒を調べていくうちに神戸の生田神社と鳥羽の伊射波神社に行きついたので、詳しく調べているうちに、邪馬台国は志摩国にあったという結論になりました。
第三章邪馬台国のロマンを探る特に古代の国にタイムスリップの部分は空想科学小説のようでもあり、不思議なコーヒーショップの「モカ」の味わいにしても、芥川龍之介の「歯車」をほうふつとさせるものであり、買って損したとは思わなかった。卑弥呼は徐福の子孫である、というくだりになると、誰も信じないだろうと思いながら、やはりそうかもしれないという思いもある。魏志倭人伝の鬼道とは道教である、としておられるがそれ以外は直観であろう。
私の理由はいくつかあります。徐福も天照大神も蒜山高原(東海の三神山の一つの瀛州山の瀛州)にいたということと、徐福は始皇帝に言われていた「三神山に留まり王となれ」という言葉を守り三神山で王となった。王とは同じ高天原(蒜山高原)にいた天照大神と思われる。徐福は道教の方士である。卑弥呼は第七代孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲媛命であり、天照大神の子孫である。天照大神は男性であり徐福である。卑弥呼も民衆を鬼道(道教)でまどわした。
卑弥呼は120歳まで生きたとか、狗奴国の王と結婚していた、とかについては理由が示されておらず、なるほどとはならなかった。
卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女・日女命又の名は倭迹迹日百襲姫命である。卑弥呼の出身は鳥取県湯梨浜町宮内(黒田庵戸宮)である。稚日女命と倭姫命は藤原氏に名前を変えられた卑弥呼であった。台与は豊鋤入姫命であり第12代景行天皇の妹であった。景行天皇の妹は倭姫命ではなく豊鋤入姫命であった。
卑弥呼は倭建命や皇軍と共に東は岩手県、西は長崎県、朝鮮半島までの広範囲を平定した。全国に神社を建てて祭祀をさせ統一した。全国の代表者を集めての祭祀は鳥取県北栄町下神(しもつみわ)の神浅茅原でしていた。その時、開化天皇や崇神天皇は豊田市の猿投神社に、倭迹迹日百襲姫命は神戸市の旧生田神社にいた。
しかし、鳥取県中部は東国から遠いため神道の祭祀は奈良の纒向ですることにした。しかし、奈良盆地には平定されたとはいえ敵対していた殷王朝末裔の準王一族(銅鐸祭祀の一族)が多く居たため、卑弥呼の安全な居所を探さなければならなかった。宇陀を出発し志摩国までめぐる「倭姫命世紀」は卑弥呼(151年〜248年)の安全な居所を探す巡行であった。奈良盆地の集落の環濠を埋めさせたのは190年頃である。卑弥呼の居所は志摩国に定めた。その時はまだ藤原氏の創った伊勢国・伊勢神宮(現在も大宮司は藤原氏の鷹司)はなかった。邪馬台国は志摩国(志摩市・鳥羽市)であった。奈良の纒向で祭祀をするときは、吉野町宮滝経由で纒向に行き、帰りは和歌山の玉津島神社から船で何日もかけて伊射波神社まで帰った。卑弥呼の墓は鳥羽市安楽島町の松の鼻古墳である。
狗奴国(一般的には「くなこく」と読む)は、中国の三国時代の歴史書三国志(西晋の陳寿の作)のうちの魏書の中の魏書東夷伝に記載されている邪馬台国と対立していた倭人の国。
男王卑弥弓呼(一般的には「ひみここ」と読むが「ひこみこ」(彦御子)とする説がある)がおり、官を狗古智卑狗(一般的には「くこちひこ」と読むが「きくちひこ」(菊池彦)「かわちひこ」(河内彦)とする説がある)と言った。邪馬台国の女王卑弥呼と卑弥弓呼は「素より和せず」戦闘状態にあったが、この戦いの最中に卑弥呼が死去したという。
卑弥呼と卑弥弓呼 - 狗奴国私考
投馬国は多磨(東京)、狗奴国は桑名市多度(三重)
矢 野 寿
一
狗奴国は濃尾平野、伊勢平野を版図とする大国で、男王卑弥弓呼が執政した王都は旧桑名郡多度町付近と比定した。濃尾平野に狗奴国があったとする説は戦後になって唱えられ、今では畿内説の主流になりつつある。本論も、『倭人伝』に邪馬台国の東(記事では南)にあり、常に戦争状態であると書かれていることから、邪馬台国と狗奴国は隣接していたと考えるほかはなく、濃尾平野説は揺るがないと考える。
三十カ国を統治する邪馬台国と狗奴国の戦力には相当の開きがあったと考えられる
関ヶ原から直線距離で30キロメートルほどだが、その地を実見すると、邪馬台国が攻め込むことができなかったことが容易に理解できる。
その多度町の航空写真を見たときの衝撃は忘れられない。旧町役場が建つ丘陵を囲むようにして多度川と肱江川が合流し揖斐川に注いでいる。真上から見たら巨大環濠集落に見える。計測すると東西2.5キロ、南北1.5キロの広さがあるが、本当に環濠集落だとしたら奈良県の纏向遺跡より一回り大きい。多度川と肱江川の合流地点は巨大な池になっているが両川の堤防と併せてとても自然の造作とは思えない。どこかで人の手が加えられていると考え、桑名市中央図書館で調べたが、修復工事に関する記録は残っていたにもかかわらず築造に関する記録は残っていなかった。ただ、ある神事誌の記事に肱江川の流路が大きく変化していることが書かれていたが、その原因、時期(時代)については不明である。アマチュアのアドバンテージとして、桑名市の大環濠集落の存在を提起したい。
固定観念の中で停滞したままの畿内説と奔放すぎるほどに変容していく九州説の間に意義のある議論は生まれない。それぞれが勝手に自説を述べ、議論はループするだけである。
本論は、そうした現状を打開するための試みである。「水行の起点からは放射式に、陸行の起点からは連続式に」という新しい仮説を提起し、「女王国」の意味に新たな解釈を加え、『倭人伝』に記された行程を矛盾なく解釈することができたと確信している。砂上の楼閣のような、脆弱な論理的基盤に立つ従来の畿内説に取って代わる新説であると確信している。この新畿内説によって邪馬台国論争を喚起させることになれば望ましいことである。
平成27年1月29日
【佐賀】邪馬台国はどこ? 吉野ケ里で考古学フォーラム 「環濠集落、九州では増えるが、近畿では無くなる」「奈良盆地が有力地」
邪馬台国について考えるフォーラムが7日、吉野ヶ里町の吉野ケ里歴史公園で開かれた。近年の考古学研究成果を基に有力候補地について意見を交わした。
福岡県久留米市文化財保護課長補佐の白木守さん、奈良県桜井市教委文化財課長の橋本輝彦さん、佐賀女子短大名誉教授の高島忠平さんが講演した。九州説では墳墓や山城、集落などを、近畿説では弥生土器の編年と古墳の規模・形状などを根拠とすることを説明。決め手となる文字史料が見つかっていない点も言及した。
中国の歴史書、魏志倭人伝に記された邪馬台国の集落について「環濠(かんごう)集落を思わせるが(卑弥呼の時代に)九州では増えるが、近畿では無くなる」と高島さん。白木さんが「卑弥呼の居住地であれば環濠はあってしかるべき」とする一方で、橋本さんは「同一様式の土器が大量に使われ、一つの水系に位置する点で奈良盆地が有力地」と答えた。
「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦
千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。
邪馬台国・卑弥呼
卑弥呼の母親(先祖は弟磯城で姓はハエ)は出雲神族の出身であった。母親が同族だから出雲神族も卑弥呼を共立した。倭国は鳥取県中部であったから倭国大乱は鳥取県中部(倭国)と鬼(出雲神族)の発祥の地の島根県東部(出雲国)との戦いであった。
卑弥呼は天照大神・天忍穂耳・瓊々杵命・神武天皇の子孫であり、占領した地に銅鐸を置いて行った出雲神族の銅鐸文化圏の生まれではなく、天忍穂耳や家来の猿田彦が使っていた光らせて通信をする伯耆族の銅鏡文化圏の生まれである。
卑弥呼(倭姫命・稚日女命)は、全国(東は岩手県、西は長崎県)と朝鮮半島を平定し、倭国(鳥取県中部)より温暖な志摩国を終の棲家とした。卑弥呼の出身国の倭国(鳥取県中部)とは離れた国であった。邪馬台国(志摩国)は卑弥呼が選んだ倭国(鳥取県中部)の分家である。
箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない。鳥羽の安楽島町と伊射波神社との間にある径70m余りの松の鼻古墳が卑弥呼の墓と思われる。身長170cmくらいの人の歩幅は70cmくらい(ヤフー知恵袋より)であり、100余歩は70m余りとなる。実際に誰かが歩いたものと思われる。これを×2にするのは箸墓古墳を卑弥呼の墓にしようというこじ付けである。松の鼻古墳からは鉄剣が出土している。
藤原氏は原古事記に書かれていた邪馬台国(志摩国)を隠蔽するために伊勢国と伊勢神宮をテーマパークとして創設した。
「倭姫命世紀」は偽書ではなく倭姫命(卑弥呼)が祭祀場である奈良の纒向から離れた安全な居所を探すための巡行の記録を、伊勢神宮が出来た由緒を作るため、整合性を図って改ざんしたものであり、偽書に見えるが原典は偽書ではない。
史実は「倭国大乱の後に、倭姫命(卑弥呼)が祭祀場である奈良の纒向から離れた安全な居所を探すための巡行をし、卑弥呼が亡くなってから豊鋤入姫命(台与)が都(鳥取県中部)周辺の乱を平定する少しの巡行をした」であり、二人の巡行は目的の違う巡行であった。
倭姫命世紀は「天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉る」ために天照大神を奉戴して巡行した、とする。安全な居所を探すための倭姫命の巡行は宇陀、伊賀から始まるため、倭姫命→豊鋤入姫命では巡行地が繋がらなくなる。「天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉るための巡行」とするためには、倭姫命の巡行の前に、巡行が三輪神社(本当は鳥取県北栄町の三輪神社)で終わる豊鋤入姫命→巡行が宇陀から始まる倭姫命としなければならなかった。目的も時代も違う巡行を「天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉るための巡行」とするために、整合性を図って順序を逆にして引き継いだとしなければならなかった。
倭姫命世紀では「大和」と「倭」の字を使い分けている。「倭」は鳥取県中部であり「大和」は奈良であった。
鳥取県中部が倭国であったから、但波(但馬)と木乃国(鳥取県智頭町)と吉備(岡山県と広島県)は鳥取県中部(倭国)をとりまく周辺地域である。
千余人が誅殺し合ったのもこの地域と思われる。豊鋤入姫命はこれらの地域を平定する巡行をした。吉備国名方濱宮と但波乃吉佐宮は比定地が多く特定できていない。特に吉備国名方濱宮の比定地は和歌山県に2か所あり、比定地を和歌山県にもってこようとする藤原氏の意図が見て取れる。木国は大国主の時代だから国の大きさは直径5km〜10kmくらいであり、山奥にあり濱はなかったと思われる。奈久佐濱宮は木国を和歌山県にしたい藤原氏の改ざんと思われる。
「倭国、彌和乃御室嶺の上(山側)の宮」とあるが「上」を「ウエ」ではなく「カミ」と読ませる。「上」(カミ)とは鳥取県中部では山側(南側)のことを意味する。鳥取県北栄町下神の三輪神社跡の石碑は三輪山(御室嶺)の山側(南側)にある。奈良で、特定の方角を「上(カミ)」と呼ぶ慣例があるとは聞いたことがない。
倭姫命は志摩国に着いて、始めのうちは磯部の伊雑宮にいて水田稲作を普及させた。「かの稲を伊佐波登美神をして抜穂に抜かしめて、天照皇太神の御前に懸久真に懸け奉り始めた。志摩国の伊雑の方上に伊佐波登美の神宮を造り奉り、天照皇太神宮の摂宮と為した。伊雑宮がこれである。」と倭姫命世紀にあるが、現在伊雑宮の祭神は天照大御神だけとなっている。
安楽島の伊射波神社に伊佐波登美(トミだから出雲神族)を祀るようになったのは、藤原氏によるものである。安楽島の伊射波神社の祭神に倭姫命はおらず、祭神は稚日女命である。藤原氏はそこに「倭姫命」に仕えた伊佐波登美(イザワトミだからイザワ地域にいた出雲神族)を持って行った。稚日女命も倭姫命も同一神であることを藤原氏は知っていて移動させている。倭姫命は伊勢国に引き返すのではなく志摩国に留まり、神社の祭神である稚日女命に変身して安楽島の伊射波神社を終の棲家とした。姫小松(稚日女命)の松の鼻古墳もある。松の鼻古墳が卑弥呼(日皇女=孝霊天皇の皇女)の墓と思われる。
倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)は鳥取県湯梨浜町出身であり、7歳まで長瀬高浜で巫女になるための訓練を受けていた。
1 香川県の水主神社の伝承などによると、倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)は香川県に来られた時にはすでに、神意を伺い、まじない、占い、知能の優れたお方であったという。倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)が神意を伺い、まじない、占いをすることを覚えたのは鳥取県湯梨浜町長瀬高浜であった。
2 古事記には『倭建命は歌を詠んで、「出雲建が佩ける太刀、つづらさわまき、真身(さみ)なしに哀れ」』とある。
長瀬高浜遺跡の円墳1号墓の箱式石棺から女性の遺骸と一緒に右手横に絹紐を巻いた太刀が置かれていた。この太刀は小林行雄先生らによると、つづらさわまきの大刀である。「つづらさわまき」とは巻き方のことであって、材料は絹紐でもよいわけである。
長さ1.01m・幅4.8cmの大振りの直刀
。 小林行雄先生らによるつづらさわまきの大刀(長瀬高浜遺跡発掘調査報告書より)
6は柄部。7は中央部。
1は中央部。2は先端部
倭建命が身に着けていた都豆良佐波麻岐(つづらさわまき)の太刀もこのような太刀であったのだろう。つづらさわまきの太刀は当時皇太子や皇女がみにつけていたものと思われる。
ここに埋葬されていた女性は皇女・あるいは皇女と同格の巫女であると思われる。天皇家の皇女は代々長瀬高浜で巫女になる習わしであった。天皇家は長瀬高浜に皇女・あるいは皇女と同格である巫女を置いていた。長瀬高浜遺跡1号円墳は5世紀中頃の築造である。私見では倭五王、珍(反正天皇)、済(允恭天皇)、興(安康天皇)、436年〜477年の時代であり、天皇の皇居は鳥取県中部にあった。
3 長瀬高浜遺跡は孝霊天皇の皇居があった宮内(東郷池周辺の師木地方)の近くである。卑弥呼も小さいときから、長瀬高浜で巫女になるための訓練を受けていたものと思われる。長瀬高浜は道教(鬼道)を教える場所でもあった。大来皇女は1年半で道教を会得したから、卑弥呼は5歳のころから修行を始めれば道教(鬼道)を会得することができる。
封印された邪馬台国
天照大神は卑弥呼だった
「古事記」「日本書紀」から読み解く古代日本史最大のミステリー
「古事記」の神話のおよそ三分の一は「出雲神話」である。
1984年、出雲(島根県加茂町神庭荒神谷遺跡:かんばこうじんだに)から358本の銅剣や、6個の銅鐸、16本の銅戈が出土している。
神話の中で重要な位置をしめる「もの」や「場所」が、考古学上でも重要な位置をしめているようにみえる。
私たちは、『古事記』神話を「半実半虚なり」と心得たうえで、深く探究する必要がある。
「虚」と思われていたものが、考古学的な発掘などによって、いつ「実」に転化するかわからないの
である。
出雲説「オオクニヌシの国こそが邪馬台国」
http://wajinden.com/邪馬台国はどこか?/#04
古事記の記述は出雲に1/3を費やしており、近年ではオオクニヌシの国譲りが何らかの実話に基づくものだったのではないかと言われている。それと言うのも1980年台から90年台にかけて、大規模な遺跡の発掘が相次いだのだ。荒神谷遺跡からは358本の銅剣、16本の銅矛、加茂岩倉遺跡からは39個の銅鐸が発見された。また鳥取県でも環壕や楼閣があったとされる妻木晩田遺跡(遺跡の面積は156ヘクタールと国内最大級)が見つかっている。ただし一般的には「ヤマタイコクよりも少し前の時代に出雲にも有力な王国があった」というのが一般的な解釈のようだ。とはいえ邪馬台国やヤマト政権を考える上では、出雲周辺地域(山陰地方)を精細に見直す必要がある。
吉備王国こそが邪馬台国
松木武彦氏(考古学者:国立歴史民俗博物館教授)は考古学の分析から、2世紀前の邪馬台国は吉備にあり、それが大和(纏向)に移った可能性がある。特殊器台、楯築墳丘墓の様式(全国の古墳の元祖の可能性)などがそれを示すという。
古代の天皇家は吉備から妃を多く迎えており、その結びつきの強さがうかがえる。
邪馬台国発見のカギは?
近畿、九州、出雲の説をみてきたがどれも決定打にかける。
邪馬台国に近づくためには、「伊都国」「出雲」のさらなる調査、三角縁神獣鏡がいつどこで作られたかの究明、銅鐸文化消滅の謎の解明などが必要かもしれない。伊都国、出雲以外では、魏志倭人伝に邪馬台国との対立が描写される「狗奴国」の存在にも注目したい。「狗奴国」の位置が特定できれば(熊本、愛知説などが有力)邪馬台国の特定がある程度可能になる。(関連:狗奴国の考古学)また宮内庁などが管理する天皇家の歴代の古墳(箸墓など)を再調査できれば、見えてくるものもあるだろう。今後の研究や発掘の成果に期待したい。
倭国
倭国(わこく)とは、古代の中国の諸王朝やその周辺諸国が、当時日本列島にあった政治勢力、国家を指して用いた呼称。倭国および倭国王の勢力範囲に関しては諸説ある。7世紀後半に、対外的な国号を日本に改めている。
1世紀中葉の建武中元2年(57年)になると、北部九州(博多湾沿岸)にあったとされる倭奴国(ここで云う国とは、中国で云う国邑すなわち囲まれた町のこと)の首長が、後漢の光武帝から倭奴国王に冊封されて、金印(委奴国王印)の賜与を受けている。
日本が発展する中で「倭」という文字は国名に相応しい意味ではないと気付き、それが理由となり「日本」という国名に改めていったという説が存在する[4]。その後、7世紀後半に至るまで国号の表記は倭国・倭のままであった。
7世紀最末期には新国家体制を規定する大宝律令の編纂がほぼ完了したが、同律令施行直前の701年前後に国号が倭・倭国から日本へ改められたとされている。以後、日本列島の中心的な政治勢力が倭をヤマトと自称することになる。
このときの国号改称について、新唐書(『唐書』)、旧唐書(『舊唐書』)に「倭という名称をきらって日本へ改称した」という内容の記述が残されている。また、両書には「元々小国だった日本が倭国を併合した」という内容の記述もあり、これは天武天皇が弘文天皇の近江朝廷を滅亡させた壬申の乱を表していると一般的には理解されている。また、朝鮮半島の史書『三国史記』「新羅本紀」文武王十年(670年)12月条には、「倭国、号を日本に更む。自ら言う、日出づるに近きを以て名を為す」とある。
その後も日本国内では、しばらく日本を指して「倭」ヤマトと呼ぶこともあったが、奈良時代中期頃(天平勝宝年間)から同音好字の「和」が併用されるようになり、次第に「和」が主流となっていった。また、「日本」は当初は「ヤマト」と読まれていたが、やがて「ジッポン」「ニッポン」などと音読されるようになり、それが平安時代頃に定着し、現在へ至ったとされる。
弥生時代に謎の大量殺戮? 大量の人骨をDNA分析、弥生人のルーツ
鳥取県埋蔵文化財センター(鳥取市)や国立科学博物館(東京都)などが連携し、鳥取市
青谷町の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡から出土した弥生 ... 魏志倭人伝」「後漢書」 などの書物には、この時期に「倭国大いに乱る」とする記述もある。
2世紀頃、この地方に大乱、所謂、「倭国大乱」があったとされる・・、
倭国大乱(わこくたいらん)は、弥生時代後期の2世紀の末に倭国で起こったとされる争乱であるともいわれる。 中国の複数の史書にその記述が見られるという。
それは列島規模であったとする見方もあり、日本史上初の大規模な戦争(内戦)だとする意見もある
記紀には若干の記載がある程度だが、中国の正史である三国志(魏志倭人伝)や後漢書(東夷伝)には大略記述され、尚且つ、出雲風土記や日野郡誌にも記録があるという。
後漢書「東夷伝」(東夷は、元々は中国の山東半島一帯に住んでいた実在の民族の事を差していた様だが、主に、朝鮮、日本(倭)の事を差している事が多いともいう)によると、「2世紀に倭国は大いに乱れ、互いに戦い、何年もの間、主となる王を立てられないほどだった」とある。
この争いは、後に「卑弥呼」を大和王朝の大王として擁立する事によって収まったともされているが・・?
「倭国大乱」の後の統一後でもあり、邪馬台国の「卑弥呼」が30余国を統一支配し、中国(魏)との正式な交流が始まる段になってからであるとされている。
日本書紀の神功皇后記において、魏志倭人伝の中に「卑弥呼」に関する記事を引用している。 このため、江戸時代までは卑弥呼=(イコール)神功皇后だと考えられている。
特に桃太郎の鬼退治のくだりはヤマト王権と出雲族、朝鮮半島からの渡来人との間で起きた武力衝突を、伝承や御伽噺として脚色、伝承したものが元になったという点で、興味津々である。
日本の古代史を考える上で、山陰は重要な地域として注目されています。
そんな中で、邪馬台国畿内説、同九州説の二大論争に加えて
新たに「邪馬台国山陰説」を唱えているのが、山陰古代史研究会代表の田中文也さんです。
山陰古代史研究会とは「邪馬台国山陰説」を唱える田中文也氏が代表をつとめる、
古事記・日本書紀、神賀詞、風土記さらには史記などの古代中国の史料も含めた古代
史研究に加えて、そこへあらたにさまざまな自然科学や民俗学、文化人類...
青谷上寺地遺跡
青谷上寺地遺跡展示館(あおやかみじち いせき てんじかん)
鳥取県 青谷上寺地遺跡
青谷上寺地遺跡は弥生時代前期末(約2200年前)から古墳時代前期初め(約1700年前)にかけて存在しました。弥生時代中期後葉(約2000年前)になって、大規模な護岸施設が作られたり、出土品の量も増えることから、この時期に集落の拡大があったと考えられます。
平成20年3月28日に国指定史跡となりました。
銅鐸
「聞く銅鐸」「見る銅鐸」
鐸破片。左下は「見る銅鐸」、あとの2点は「聞く銅鐸」。平成10年に出土した「見る銅鐸」は、当時日本海沿岸における西限例でした(その後島根県出雲市で出土)。
卜骨(ぼっこつ)
シカやイノシシの肩甲骨を点状に焼いて、ヒビの入り具合などで占ったと考えられます。
占いに用いた卜骨は200点以上見つかっています。
残念ながら何を占ったか分かりませんが、『魏志倭人伝』によれば事を始めるときに占ったとありますので、何をするにも、まずは神の意向を確認したのかもしれません。
wikipedia「スサノオ」
スサノオ(スサノヲ、スサノオノミコト)は、日本神話に登場する神である。『日本書紀』では素戔男尊、素戔嗚尊等、『古事記』では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと、たてはやすさのおのみこと)、須佐乃袁尊、『出雲国風土記』では神須佐能袁命(かむすさのおのみこと)、須佐能乎命などと表記する。
幻の古代王国?邪馬台国はどこ?
それぞれの説の比定地は、「邪馬台国比定地一覧」にまとめられている。