樗谿おうちだに・樗谿公園・鳥取東照宮(樗谷神社・因幡東照宮)をNAVERまとめにまとめました。

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「樗谿」
・「おうちだに」か「おおちだに」。「おうちだに」が主流のようです。

▼【その1】鳥取東照宮(樗谷神社・因幡東照宮)・樗谿公園

鳥取東照宮(樗谷神社・因幡東照宮)
・1648年(慶安元年)鳥取藩初代池田光仲が、幕府に東照宮勧請を願い出る。同年12月に許可を得る。
・1650年(慶安3年)4月に創建。御神体は9月12日に鳥取着、16日に遷宮。以後、東照宮や因幡東照宮、御宮と呼ばれる。
・1868年(明治元年)明治政府の神仏分離令。東照宮に隣接した別当寺の大雲院は移転。
・1874年(明治7年)樗谿神社に改称。県社。
・1897年(明治30年)大雲院跡地に西町にあった招魂社が遷座転入。招魂社は1939年(昭和14年)に護国神社に改称。
・1900年(明治33年)樗谷神社を分霊して、北海道空知郡岩見沢村の開拓地に鳥取神社(現・東神社)を勧請。
・1912年(明治45年)鳥取市が東京府園芸技師長岡安平氏に委託して樗谷公園の計画図・設計書。その後計画は一部施工に止まる。
・1974年(昭和49年)護国神社(旧・招魂社)が鳥取市浜坂に遷座。
・2011年(平成23年)10月27日樗谷神社を鳥取東照宮(宗教法人鳥取東照宮で登記)に改称。

・祭神は主神に東照大権現たる徳川家康、配神として池田忠継・忠雄・光仲・慶徳が合祀されている神社。
・本殿、唐門、幣殿、拝殿は、国の重要文化財。
・現在の社殿は1650年(慶安3年)の創建当時のもので、江戸時代初期の神社社殿建築の遺構として貴重。
・鳥居の「東照宮」の額は、尊純法親王(青蓮院宮尊純法親王)のもの。
・本殿扉上の桁の鷹の彫刻は、左甚五郎の作と伝えられている。

鳥取東照宮の宝物
・「甲冑」池田光仲など池田家の藩主が納めた甲冑
・「太刀」神剣として奉納されたもの
・「鷹図(松に白鷹・梅に白鷺図)」狩野探幽画。 家老の荒尾志摩が寄進。
・「三十六歌仙扁額」絵は狩野探幽画。歌は青蓮院宮尊純法親王筆。36の扁額すべてが現存。(三十六歌仙:藤原公任の「三十六人撰」に載っている36人の歌人)

大雲院
・東照宮に隣接した別当寺で、東照宮に隣接していた。
・創建時は淳光院で、僧侶が変わるたびに寺号も変えた。
・1815年(文化12年)から、池田輝澄の院号の大雲院に定まる。
・祭祀を司り、歴代徳川将軍の位牌所や池田家歴代の祈願所でもあり、鳥取藩内の天台宗寺院を管轄していた。
・1868年(明治元年)、明治政府の神仏分離令により移転。
・現在の大雲院は、市内立川町の霊光院に移転している。
・大雲院の跡地一帯は招魂社を経て、公園に整備されている。

大雲院の宝物
・「仏画」神仏を対比させて描いた画
・「家康画像」江戸の寛永寺より納められた。
・「紙本金字法華経」鎌倉時代の法華経

長寿院
・1639年(寛永16年)長寿院が鳥取市栗谷に建てられ、慈眼大使(天海)が弟子の栄春を送った。
・1648年(慶安元年)長寿院で家康の三十三年忌。

左 甚五郎(ひだり じんごろう)
・彫刻職人。
・人名ではなく工匠たちの代名詞とか一人ではない、架空の人物といった説もある。
・日光東照宮の眠り猫、出雲大社の八足門や蛙股の瑞獣など、甚五郎作といわれる彫り物は全国各地にある。
・鳥取県八頭町にある西橋寺本堂の「波に兎」も甚五郎作とされている。

狩野探幽(かのう たんゆう)
・1602年3月7日(慶長7年1月14日)〜1674年11月4日(延宝2年10月7日)
・江戸時代の狩野派を代表する絵師

尊純法親王王(そんじゅんほっしんのう)
・青蓮院宮尊純法親王(しょうれんいんのみやそんじゅんほっしんのう)
・1591年12月1日(天正19年10月16日)〜1653年6月21日(承応2年5月26日)
・天台宗の僧であり、能書家

徳川家康
・1543年1月31日(天文11年12月26日)生誕。
・1616年6月1日(元和2年4月17日)駿府城にて死去。
・亡骸は久能山(現静岡県・久能山東照宮)に葬られ、1年後に日光山(現栃木県・日光東照宮)に改葬された。

慈眼大使(天海)
・天台宗の僧。
・徳川家康の側近であり、家康を東照宮大権現と神格化。

池田光仲
・1630年7月27日(寛永7年6月18日)〜1693年8月8日(元禄6年7月7日)
・岡山藩主池田忠雄の長子、江戸藩邸で生まれた。
・1632年(寛永9年)3歳で因幡国鳥取藩初代藩主となる。
・1648年(慶安元年)3月鳥取へ初入国。
・家康のひ孫。

鳥取市歴史博物館 やまびこ館
http://www.tbz.or.jp/yamabikokan/
(一部抜粋)
鳥取市街地は、江戸時代以来、度重なる千代川・袋川の氾濫のほか、昭和18年に起こった鳥取大地震、そして昭和27年には鳥取大火が発生し、大きな被害をもたらしました。

▼【その2】樗谷・樗

大日村・大日谷
鳥取市
http://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1240472250501/index.html
「樗谿」の由来については、古来、樗谿の山中に「王子(寺)」(おうじ)という寺院があったことにより、「王子(寺)谷」(おうじだに)と言われていたとの説と、かつて「大日村」という村落があったことから「大日谷」(おおひだに)と言われていたとの2つの説があります。「樗谿」の字が当てられるようになったのは、園内にある東照宮が明治時代に「樗谿神社」と改称されてからのようです。

東照宮ができるまで 寺院と村落があった時代
往古、樗谿の山中には「王寺」という寺院が存在したといわれます。その関係で古くは「王寺谷」(王子谷)と言われ、あるいはかつて「大日村」という村落があったことから「大日谷」「大日ケ谷」とも言われました。
(以上、原文のまま)
「樗谿を歩く 歴史と自然のフィールドワーク」編集・発行:鳥取市歴史博物館
尚、この書籍には「因幡民談記」の内容が多く記載されている。

鳥取市のホームページでは、「王子(寺)谷」と「大日谷」の2つの説があるとのこと。この書籍では、そうともとれる内容だが、王寺と大日村は実在したようにもとれる。

樗谿の名前の由来や名付けられた時期などの定説はないようだ。

『<王子(寺)谷>とも<大日谷>とも言われていた』として、説を考えてみた。

私説1〓「寺:王寺、村:大日村、谷:大日谷又は王寺谷」

・王寺は、現在姫路市にある天台宗寺院の書寫山圓教寺が王寺の本寺(末寺を直轄する寺院)
・王寺という寺院が実在した時期は分かっていないが、江戸時代をややさかのぼった時代だろう。
・1581年の秀吉の鳥取城攻め、1600年(慶長5年)関が原合戦にともない大日ケ谷の山上に亀井軍の隊。
・これらの戦乱で王寺は、退廃したのだろう。
・王寺の跡地周辺に東照宮を建立したことが推測される。
・1619年の鳥取城下絵図は栗谷までで、大日村は町割から外れていた。
・1632年には大日村は武家地に整備されていた。
・大日村→集落を移動→小西谷村(小在・こざい)
・移動の時期は定かではないが、1624〜1644年頃ではないだろうか。

王、王子、大日。いずれも、ただものではないし、同じ表現とも感じる。
谷と寺、谷と村の名前は、同じではない場合も考えられる。

A、王子谷→王寺→王子谷(王寺谷)→大日村→大日谷
・王子谷に王寺という寺院を建立し、王子谷は王寺谷とも書かれた。
・王子谷に大日村ができた。
・王子谷は大日谷と呼ばれるようになった。

B、大日谷→王寺→大日谷(王寺谷・王子谷)→大日村
・大日谷に王寺という寺院を建立した。
・大日谷は王寺谷と呼ばれるようになり、王子谷とも書かれた。
・大日谷(王寺谷・王子谷)に大日村ができた。

C、谷に名前はない又は別名→王寺→王寺谷(王子谷)→大日村→大日谷
・谷に王寺という寺院を建立した。
・谷は王寺谷と呼ばれるようになり、王子谷とも書かれた。
・王寺谷に大日村ができた。
・王寺谷は大日谷と呼ばれるようになった。

などが考えられるが、AかBの「寺:王寺、村:大日村、谷:大日谷又は王寺谷」ではないだろうか。
そして、「人が住まなくなった谷は、名前も消え、やがて新しい名前の樗谿になった。」のだろう。谷全体を王寺谷(王子谷)、村のあった辺りを大日谷(大日ノ谷・大日ケ谷)といったのかもしれない。

私説2〓「樗は色の名前」「樗谿は明治新政府が神社だけに付けた名前」

1871年(明治4年)廃藩置県により鳥取県となった。

東照宮の新名称を担当する新政府の関係者(たち)がいた。
1874年(明治7年)東照宮を樗谿神社に改称。
彼らは、そこの地名・歴史を残しつつ、東照宮での体感から樗谿神社とした。
谷と谿の違いについては全く調べていないが、もしも、それも拘ったのであれば、東照宮建立時に変えた自然のままではない谷を表現したかったのかもしれない。
尚、彼らは神社の名前を樗谿としただけで、谷の名前は、「王子(寺)谷」(おうじだに)又は「大日谷」(おおひだに)のままであった。と思う。

谷を樗谿と呼ばれるようになった時期

鳥取市
http://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1240472250501/index.html
「樗谿」の字が当てられるようになったのは、園内にある東照宮が明治時代に「樗谿神社」と改称されてからのようです。
「神社の名前より先に樗谿という名前があった。」という説もある。

樗谿神社(鳥取市)
http://plaza.rakuten.co.jp/simo2007/diary/201202010000/
この神社の由来は『大日谷』や『王子谷』の地名が転じて明治時代までに『樗谿』となり、それが神社の名前となったとの事が有力だそうです。

東照宮創建の1650年(慶安3年)、東照宮を樗谿神社に改称した1874年(明治7年)の間の200年あまりのいつか。なのだろうが、その説を裏付け、時期を特定できる資料が見つからなかった。

1、鳥取以外の地で資料を見た。
「王寺(谷)神社か、王子(谷)神社か、大日(谷)神社」

2、どこかで誰かに聞いた。自分でも言ってみた。
「どれも似ている。おうちだに(おおちだに)とも聞こえた。」

3、現地に行ってみた。
神域だけに漂う気があり、もやが立ち込めていた。
「語呂合わせで他の字を考えよう。」

4、考えた。相談した。
聖徳太子も定めた最上位の色、紫。
樗は、薄い青紫。
「そうだ、樗にしよう!」


私説3〓「樗は木の名前」「センダンではなく神樹」

谷に樗(あふち)の木があったことから、樗谿といわれているという説もある。

樗(あふち)の木

1、センダン
栴檀
楝(おうち)花樗(はなおうち)
アジア各地の熱帯・亜熱帯域に自生。
日本での本来の自生は、四国までとされ。主に四国、九州、沖縄に分布。
温暖な地域の海岸近くや森林辺縁に多い。

2、ニワウルシ(シンジュ)
神樹(しんじゅ)樗木(ちょぼく)臭椿(しゅうちん)
生薬名は、樗白皮 (ちょはくひ)
ニガキ科の落葉高木。
原産は中国北中部。日本には明治初期に渡来。
近畿地方に自生。

3、ニガキ
苦木

4、ゴンズイ
ミツバウツギ科

5、「樗」の漢字を使う昆虫・シンジュサン(神樹蚕・樗蚕)
ガの一種で、柑橘類、シンジュ、ニガキ、ヌルデ、クヌギ、キハダ、モクセイ、クスノキ、エゴノキ、エノキなど数多くの樹木の葉を食べる。

センダンとする方が多いようだが、「樗(あふち)の木」=シンジュ(ニワウルシ)ではないだろうか。
栗谷を意識して、ここも植物名としたのかもしれない。
東照宮建立の頃に植林した記録は、数万本の松、参道の両側に色々な桜を200〜300本、その他、杉や樅も植えたようだ。樗を植えた記録は見つからなかった。
では、自生していたのだろうか?これも分からなかった。

〓私説1・2・3のまとめ

樗谿の名称を変更するとしたら・・・
王子の滝が現存すること、東照宮建立時に御手濯の池(王子の池)があったこと、大日より王子の方が分かりやすいこと、などから「王子谷」か、太閤ヶ平(たいこうがなる)を意識した「王子ヶ谷」もいいと思う。

▼お世話になった情報元
鳥取県
http://www.pref.tottori.lg.jp/
「とっとりの名宝を訪ねて<第6回> 東照宮(とうしょうぐう)の名宝 樗谿(おうちだに)神社と大雲院」
「とっとりの名宝を訪ねて<第20回>狩野(かのう)探幽(たんゆう)筆「三十六歌仙図扁額(へんがく)」」
─鳥取市・樗谿(おうちだに)神社蔵─
「樗谿を歩く 歴史と自然のフィールドワーク」編集・発行:鳥取市歴史博物館
「因幡地方の歴史と文化 資料が語る鳥取の地域像」編集:鳥取市歴史博物館 発行:(財)鳥取市文化財団